東京高等裁判所 昭和32年(う)1456号 判決
被告人 藤田行
〔抄 録〕
水戸地方検察庁検察官検事八木新治の控訴趣意について。
論旨は原判決が被告人に対して無罪を言い渡したのは事実を誤認したものである、すなわち原判決は本件火災が放火によるものか、あるいは他の原因による失火であるかについて判然とした認定をしておらないが、本件火災が被告人及びその家族の火気取扱上の過失によるもの又は漏電による発火あるいは他の原因による失火でないことは明らかであり、証拠上放火によるものと認むべきであるが第三者が外部から被告人方に侵入して放火したものでないことは明白であり、被告人方内部の放火であると断ずべきであるところ、被告人方内部の者とすれば被告人又はその妻藤田千技子であるが、右千技子自身の放火と認定することは証拠上困難であるから最後に被告人のみが本件放火をなし得る唯一の者として残るのである。然るに、原判決は被告人の弁解を容れ公訴事実を認めるに足る証拠なきものとして無罪を言い渡しているのであるが、かくの如きは採証の法則を誤り事実を誤認した結果によるものと認められるので、以下順次これを検討するに(イ)被告人の当夜の行動につき被告人の検察官に対する供述と妻千枝子の司法警察員及び検察官に対する供述とは非常に異つているのに同女は公判廷においては概ね被告人の供述に合致する如き供述をなしているのであるが、同女の公判廷における供述は措信すべきではなく、むしろ同女の検察官に対する供述を信用するのが合理的である。そして右千枝子の検察官に対する供述によると被告人は火事だと怒鳴つて隣家の新井方に知らせに行く約五、六分前に発火点である店舗内北東角に行き同所の壁にある螢光灯のスイッチを捻つたものと認められ、若し被告人が放火したのではなく第三者の放火であるとすれば既にその際火事を発見すべきはずである。以上のような千枝子の供述に根本博の証言を綜合判断すれば被告人は午前三時頃起訴状記載の如き方法で店舗に放火し、寝室に戻つた際その物音に妻千技子が目を覚し、被告人との間に千枝子の検察官に対する供述調書に記載されているような問答が交されたことが推認され、更にまた被告人の犯行を裏付けるものとして被告人が当夜火災の消火方法を全く執らなかつたことが挙げられる(ロ)また原判決は火災当時被告人方に石油約七合入の一升瓶のあつたことは認められるが、本件火災後における右石油瓶(又はその破片)の存在及びその存在場所に関しては証拠上明確を欠くと判示しているけれども、火災後被告人方寝室南側の壁附近から発見された硝子瓶破片は石油瓶であることは証拠上明らかであり、右破片の存在した附近土砂から全く油類を発見することができなかつたことは、とりも直さず被告人が一升瓶入石油を全部店舗に撤布し空瓶を寝室南側に投げ棄てたものに外ならない(ハ)被告人は本件火災当時資金操作に苦慮していたこと明らかである(ニ)被告人は居宅内の家財道具及び商品に対し昭和二十九年六月十九日から同年十月四日までの間に三回に亘り合計金六十九万四千五百円の動産火災保険を締結しているけれども被告人方の家財が五万円位、革靴二十万円位、ゴム靴四万円位でこれに店舗の改造費を加えても三十五万円を越える財産があつたものとは到底認められない(ホ)当時被告人方の営業は振わず、家庭生活も逼迫していたものと認めるに十分である(ヘ)営業不振に伴う赤字の増加は将来に明るい希望をもつて開店したであろう被告人に焦躁感と苦悩を与え、且つ借入金及び買掛金の支払面においてもその限界に達し、将来の援助も期待できなくなり、更に将来に対しても大した期待を寄せ得ない実情にあつたので、被告人は店舗焼燬によつて取引先、債権者の同情を得て信用の回復を図ると共に保険金を資本として再出発を企てるに至つたという心理的経過は容易に推定し得るところで、本件犯行に至つた動機の情況証拠としては既に十分であるが、被告人の火災保険加入の経緯は更にそのことを明瞭ならしめるものである。以上の理由により被告人は保険金騙取の目的で本件家屋に放火したものであること明らかであるというにあるけれども本件訴訟記録並びに原審において取り調べた証拠に現われている一切の事実を精査し、なおこれに当審における事実取調の結果を綜合して考えても未だ原審の認定を覆えすには足りない。本件公訴事実中被告人が靴の販売修理業を営んでいたものであること、昭和二十九年十一月十日午前三時頃被告人の当時の居宅水戸市黒羽根町三百十番地所在の木造トタン葺平家建坪十二坪の東側店舗内より出火し現に人の住居に使用する右家屋、これに隣接する新井兼吉方住宅及び工場並びに平戸貞次郎方住宅が全焼したこと、当時被告人に総額百二十余万円の買掛金及び借入金の債務があつたこと、被告人は右家屋内の家財及び商品に対し昭和二十九年六月十九日日産火災海上保険株式会社との間に保険金三十万円、同年七月一日富士火災海上保険株式会社との間に保険金二十一万二千五百円、同年十月四日同社との間に保険金十八万二千円の各動産火災保険契約を締結していたこと、本件火災当時被告人方に石油約七合入の一升瓶の存在していたことはいずれも被告人の認めて争わないところである。そして本件火災が被告人又はその妻千枝子の火気取扱の不注意による失火、通行人のたばこの吸殼等の不仕末による失火、電灯線の配線工事の不完全による漏電あるいは短絡による発火、第三者の屋内に侵入しての放火等によるものであると認めるべき蓋然性のすくないことは所論の如くであるけれども本件記録全体を精査しても右の蓋然性を全面的に否定するに足る確証はなく、他面論旨は被告人の本件放火の動機として当時被告人方の営業は振わず、多額の債務を負担し資金操作もくるしく、家庭生活も逼迫してきたので、むしろ店舗を焼燬しこれによつて取引先、債権者の同情を得ると共に保険金を資本として再出発を図ろうとして放火を決意するに至つたものであると主張するけれども被告人が本件当時取引先よりその買掛金について特に強硬な督促を受けていた事実は認められず、その他の債務についてもその支払を厳重に催促されていた事実は認められないし、家賃の滞納もなく家庭生活もさほど逼迫していたものとは認め難く、被告人の数回に亘つて締結した火災保険契約はその金額において必ずしも被告人の家財商品の価格を越えるものとは認め難い。更に論旨は本件放火の手段として被告人は調理場附近にかねて蔵置していた石油約七合入の一升瓶を店舗内に持ち出し右石油全部を右店舗東北隅にある商品台附近に撒布したうえ、燐寸をもつて放火したものであると主張するのであるがこれを認めるに足る十分な証拠は存しない。従つて本件は犯罪の証明が十分でないものというべきであるから被告人に対し無罪を言い渡した原判決は相当でありこれを非難する論旨は理由がない。
(加納 山岸 鈴木重)